写真のコラージュ性

 


写真論の本を読んでいるときに『写真とはコラージュ』であると書いてあった。最初はどういう意味かよくわからなかった。

写真というものは異なった距離にある様々なものを同じ平面の上に一気に転写し、一つの画像を作り出していく。それぞれ独立した存在である遠くの空や山、目の前の歩道、ちょっと離れたところにある車、それより奥にある家、それらを一気に同一平面上に押し込み一つの画像にまとめてしまう、この作用がコラージュ的だと言っているのだろうか。

そんなことを色々考えていた時に、上海で行われた現代アート展の図録をもらった。その中に、山や森、建物や道、ゴミ箱や物干しなど様々な日用品がコラージュされた写真作品が載っていた。

その写真は一見するとだたの日常風景を写した普通の写真に見えるが、よく見てみるとそれぞれ写っているものは別々の写真から切り取られた別々のパーツに過ぎないとわかる。

これこそ、まさに写真のコラージュ性というものを、極端な形で実験した作品なのではないかと思った。

普通の写真もはるか遠くの空の画像の前に山の画像が貼り付けられ、その前に家の画像が貼り付けられ、さらにそれよりも前に車や電柱の画像が貼り付けられ、さらにその前に目の前の道路の画像が貼り付けられ、の繰り返しなのではないだろうか。

手前から遠方まで、ピント面を変えながら撮影し、全てのものにピントが合っている写真作品があるが、それもコラージュといえばコラージュではないか。

本来どこかにピントを合わせるとどこかがボケるのが普通だが、それを複数のピント面をコラージュすることで、全てにピントが合った画像ができる。

この写真のコラージュ性にきづき、様々な実験を写真家たちが行ってきたのだろう。

写真論の本は内容が難しいので理解するのに時間がかかるが、別の写真論の本を読んだり、記号論の本を読んだり、様々な写真作品を見ることで、本に書いてある色々な要素が徐々に繋がっていく。

今回は上海のアート展の図録を見ることにより、写真論の本で出会った『写真のコラージュ性』というものを理解できたような気がする。

果てしない。


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