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写真と圧縮

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  写真と圧縮 写真は本来まったく別の場所にあるものを同じ画面に捉える。 5 m先にある木、10m先にある家、20m先にあるビル、100m先にある丘、1000m上空の雲、等、存在する場所が異なる複数のものを一画面の中に平面的に捉える。 撮影者からそれぞれ別々の距離の場所に存在するものが、圧縮されて同じ平面内に押し込まれる。 これは写真に限ったことではなく、絵画も同じだと思う。写真に特有なことではなく、人間の視覚のしくみが立体物を網膜という平面に投影するというプロセスを持つので、写真にしろ絵画にしろ、同じことが起こるのだろう。 しかし、立体物をイメージセンサーや網膜という平面に投影して、それを『見ている』というしくみは同じでも、カメラと違って目は二つのレンズがあるので、私たちが実際にモノを見るときには左右のレンズで受け取る映像の差異によって距離感をつかむことができる。 だが、それを通常の(ステレオ眼鏡を使わない)写真なり絵画なりの平面に落とし込もうとするときには、もともと存在していた距離感を表現することは難しくなり、遠近法に基づいて、モノの実際の大きさと画面に写っているモノ大きさの差異によって距離を感じ取るしかない。 望遠レンズを使用したときにも『圧縮効果』というのがあって、それぞれ別距離にあるものの距離が圧縮され、近くにいる人とはるか遠くにある山の距離が近く見えるというもの。 わたしたちはモノの実際の大きさをイメージできるし、空間は3次元だということを知っているし、遠くのものは小さく見えるということも理解しているので、写真という平面に凝縮された様々な被写体を見ても、それらが異なった距離にあることを考慮に入れて見ることができる。 ある写真論の本で『写真とはコラージュなのだ』という記述があったが、初めどういう意味なのかわからなかった。しかし、全く別の場所(距離)にあるモノが一気に同じ画面に詰め込まれた状態を考えると、それはまさにコラージュなんだと思った。(この解釈が合っているかは不明) 本来同居することのない異なった距離に存在するものが同一の平面に押し込まれる。 例えばレンズを解放状態にして被写界深度を浅くした状態で写真を撮影するとピント面は薄く、ピントがあったものしかはっきりとは写らない。 しかし、絞って被写界深度を深くしてピント面を厚くしていくと、とたんに異なった距

写真展とレビューにおける対話

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  写真展とレビューにおける対話 作品作成のマテリアルとして写真を使っている以上は、常に『写真とは何か』という問いは自分の中に持ってなくてはならないと思う。 そこで『写真論』の本をいろいろ読んでみたりして『自分にとって写真というメディアはどういうものなのか』『そのメディアの特性のどの側面を使い何を表現するのか』という問いの答えを見つけようとする。 しかし、作家一人だけでできることには限界がある。自分の頭の中だけで今の自分を超えた思考を生み出すのはなかなか難しい。 そこで『レビューと写真展』を通じて他者と作品について会話をし、他者の目を通して自分の作品を再評価する』という作業が重要になって来るのだと思う。 実は作品を作っている本人が『わかってない』ことというのは多々ある。 その『わかってない部分』というのは先ほどのレビューにおけるレビュアーとのトークや写真展の会場の観覧者とのトークによって明らかになっていくこともある。 また、作品についての他者との会話の中で『作品を通じて自分が伝えたいこと』が鑑賞者に違った形で伝わっていることが明らかになることがある。 また写真展やレビューに向け、ステートメントを書き、『思考を文章化』していく過程で、今まで自分の中で明確ではなかった『作品の本質』に気づくこともある。 そう考えると、『作品』というのは『鑑賞者』と『対話』があって初めて成り立つものなのだと思う。レビューや写真展の場で他者との意見交換というのはもはや『作品の一部』なのかもしれない。そして、鑑賞者が『自分の作品を見て感じ取ったこと、脳内に想起されたこと』もまた『作品の一部』なのかもしれない。 『ある思考や仮説』が作家の中に存在し、それを『実験、実証』するための『作品』というマテリアルが作り出される。その作品を鑑賞者が見ることで、作品を介した『他者との対話』が生み出され、それが『作品の元となった思考、仮説の実証が作品により正しく行われたかの確認』の場となる。 次のグループ展ではこれを意識して、鑑賞者といかに対話するかを考えていこうと思う。

Equivalent (3)

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  写真における『等価性』についての考察の続き 様々な等価性が写真にはあると思う ■イメージとしての等価性 被写体からモノとしての具体性を取り除いた抽象的イメージの場合、 写真のどの部分を切り取っても等価である。 写真の向きを変えてもイメージは等価である。 雲の写真は場所や時間を特定できないのでどの写真も等価である。 誰が撮っても同じようなイメージが出来上がる。 ■『 等価性 』が作り出す写真の力 具体的な被写体が写っていると鑑賞者の意識はそちらに向く。 それは『写真』というものを見ているのではなく、『被写体』を見ているのである。 通常の用途の写真であれば、写真の役割はこれで十分果たせている。 しかし、具体性を取り除いた『等価な』イメージを見た時、 鑑賞者は写真に写ってる具体的な物体を鑑賞するのではなくなる。 確かに『雪』というイメージを鑑賞しているだが、『モノ』としてそれを語るうえで必要となる情報がそぎ落とされ、鑑賞者によって『どうとでも捉えられる』イメージは、写っているものだけに留まらない思考や感情を鑑賞者の脳内に誘起するのではないか。 具体性をそぎ落として『等価』なイメージを作り上げることにより、より幅広いイメージ、記憶、感情などが鑑賞者の脳内に誘起されるのではないだろうか。 『写真を撮る』という行為自体が実際の物体から『次元』『時間』『奥行き』『音』『雰囲気』等様々な具体的要素をそぎ落とす作業である。 何かをそぎ落としたからこそ、逆に拡大・拡張される何かが生まれるのではないだろうか。

Readymade

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  マルセルデュシャンの作品は既製品を作品として展示し、芸術とは何かを世に問うた。 既製品ですら、アーティストの明確なコンセプトが背後に存在すれば、それは芸術品と呼べる、ということを明示した。 写真とは『すでにこの世に存在する誰でも目にできるもの』をメディアに忠実に写しとる物である。 大抵の場合、『ただ忠実に既成のものを写しとる』という行為により、写真としての役割は十分に果たされる。 しかし、芸術作品としての写真を考える時、ただ既成のものを忠実に写し取っただけの写真では、『ただ既製品をギャラリーに展示する』のとほぼ同じになってしまうのではないだろうか。 写真という既存のものを写し取った『レディメイド』を作品に昇華させるには、作品としての『コンセプト』という裏付けが必要なのかもしれない。 ポートフォリオレビューに参加したり、展示をしたりするときには、作品についての質疑応答のために明確な作品コンセプトを提示しなくてはならず、最初のうち作品についてのステートメントを書くことは非常にやっかいなことに感じていた。 しかし、芸術作品としての写真を探求するのであれば、明確なコンセプトを提示することは不可欠なことだとわかってきた。

Equivalent (2)

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  最初は雲の写真なんで『どこで撮っても一緒だから』『誰が撮っても』 Equivalentsなのかと思っていた。 またスティーグリッツ自身は作品の縦横を気にしていなかったようなので『作品の向きがどっちでも一緒だから』 Equivalentsなのかとも思った。 そこでChar GPTに聞いてみたら まずスティーグリッツは 『 雲の写真に写るイメージは単に雲を表しているだけではなく、感情やある精神状態を誘発するものなのだ。 』、 『 写真は外部の現実というよりもむしろ抽象的な概念や内面の感情を表現できる 。』 という考えを持っていたらしい。 Equivalentsという名前をつけるにあたっては 『 それらの写真はそれらを鑑賞したものの中に湧きあがった感情や思考と同一のものである 』と提示することで、それの写真が持つ象徴的、感情的な重要性を強調しようとした。 と、多分書いてあった。(訳が間違っているかもしれないけど) 『写真 = 鑑賞者の感情や精神状態』というこのなのか? たぶんもっと本を読んだりすると違った解釈もあると思うので、研究続行。

Equivalent (1)

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  写真論の本に出てくる、写真のインデックス性についてはだいたい理解した。 記号論の本だけではなかなか理解しづらかったけど、いろいろ調べると、大学の論文とかもヒットする。そういう文献も理解の助けになった。 次に出てきたのがスティーグリッツの『イクイバレント』という雲の作品。 『同等物、同意義、同価値』的な訳の言葉だけど、何に対しての同等性なのか。 ここの理解がまだできていないけど、自分の写真の正体を知るひとつのヒントになりそうな予感がする。 自分は雲じゃないけど雪の表面とか山の斜面ドアップとか、けっこう物の正体をぼやかしてテクスチャーだけ拾ってくる写真が多い。なんでそうなるのかはよくわからないけど、物自体よりも集合体が作り出すテクスチャーというか模様というか、そういうのが好きなのかもしれない。 写真論の本を読み始めると、けっこう自分の写真について理解しないまま撮ってるということに気づかされる。 自分の写真がどういうジャンルに属しているのか、どういう理由でそうなったのか、説明するためのボキャブラリーがないと自分の中で腑に落ちないまま撮り続けることになる。 難解なことが多いけど、難解なことに出会うたびに色々調べてボキャブラリーを増やしていこう。 果てしない。