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消失と拡大

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  消失と拡大 人は何かを見た時、何らかのイメージや記憶、感情が脳内に想起される。 犬を見たら『かわいい』という感情が生まれたり、昔飼っていた犬を思い出したり。小さいこと噛まれた経験を思い出したり、『忠誠心』という言葉を想起したり、犬とよく比較される猫について考えたりと、人それぞれ多様なイメージが心の中に生まれるだろう。 写真にも実際のものと同じく、鑑賞者の脳内に様々なイメージを想起させる機能があると思う。田舎の風景の写真を見た時、『夏休みの思い出』が想起される人もいれば、『田んぼに落ちて叱られた記憶』が蘇る人もいるかもしれない。過去の視覚的な記憶だけでなく『牧場の匂い』を想起したり、『夏の日差しの暑さ』など様々な感覚器官を通して感じたことも想起されることがあるかもしれない。 この『イメージの想起』という機能を考えた時、実態のあるモノよりも写真の方が、それが想起させるイメージの幅が広いのではないかと思う。 写真というものは、三次元の奥行きのある物体から『時間』と『奥行き』を取り去り、平面に押し込めてしまう。フレームに収められることで、上下左右の景色が切り取られる。また同時に、空間が持っていた『雰囲気』『温度』『空気の流れ』『匂い』なども取り去ってしまう。写真という平面に押し込まれる時、様々な要素が取り払われ、それぞれの場所や被写体が本来持っていたアイデンティティの一部が欠落していく。 それにより、例えば『海の写真』があった場合、ある時間、ある空間から切り離されたことにより、それは撮影者が撮影した、ある特定の時間の特定の場所の海ではなく、鑑賞者それぞれの『心の中の海』になり得るのではないだろうか。 写真は様々な要素が欠落していることにより、鑑賞者の没入感は現実の景色を見ている時よりも大きく、それ故に脳内に想起されるイメージも、過去の記憶から未来への希望、記憶から感情、何らかのイメージと多様になっていくのではないだろうか。 抽象絵画は、その対象から具体的な形を取り去ってしまうことで、鑑賞者が想起できるイメージの幅が拡大されていく。写真も様々なものを取り去ることで、これと同じことが可能になっているのではないかと思う。 『消失』により生まれる『拡大』 これも写真を考える上で重要な要素ではないかと思う。

写真と時間

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  写真と時間 撮られた写真と撮られなかった写真 この世には無数の出来事が起こっている。自分が今日行動した範囲内だけでも、無数の人が行き交い、無数の車が目の前を通り過ぎ、街頭のスピーカーから音楽や宣伝が流れ、風が吹いたら桜が散り、路上には鳩が歩いている、等数えきれない穂と様々な出来事が絶え間なく起こり続けていた。 それを地球全範囲に広げて考えると、莫大な数の出来事が今日の24時間で起こっていた。 その無数の出来事の中で、『写真に撮られる出来事』と『写真に撮られない出来事』がある。『桜がきれいに咲いている』風景は写真に撮られる可能性が高い。しかし、『道に落ちている枯葉』というのは写真に撮られる可能性はかなり低いだろう。 その『撮られた出来事』の写真の中でも『誰にも公開されない』メモリーの肥やしになる、もしくはそのままごみ箱行きになる写真と『誰かに公開される』写真に分かれていく。 『撮られた』上に、さらに『人に公開された』写真の中にもそのまま『記憶に留まる』写真になるものもあれば『たど消費され忘れ去られていく』写真もある。 インスタで一年前にバズった写真とか、確かに見たことはあるんだけど、もう思い出せない。広告の写真とか雑誌に載った写真とか莫大な数の人の目に映った写真も、その役目を終えた後は忘れ去られていく。 しかし、時間の経過とともに『撮られたけど忘れられた写真』の価値が上がり、突然脚光を浴びる可能性もある。 メモリーの肥やしになっている今は誰も目にしない写真も将来その記録媒体であるハードディスクなどが廃棄され、たまたまそれを手に入れた人が偶然その写真を目にするということはあり得る。(データの消去をせずに廃棄した場合) 誰がいつ撮ったかわからない『ファウンドフォト』という形式で日の目を見る可能性もまだある。(フィルムと異なり、デジタルデータには日付の情報、場合によってはGPSのデータなどが付いている可能性があるのでフィルムのファウンドフォトよりは正体がわかりやすいが) それが『人に公開する必要がなかった』くらいどうってことない日常のありふれた光景でも、50年前の写真データであれば『歴史の証人』としての新たな役割が与えられ、私たちは興味深くその写真を見るだろう。 忘れ去られた広告写真やバズった写真も、記録として残っていたり、SNSの膨大の記録の中に消去されずに残...

写真と圧縮

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  写真と圧縮 写真は本来まったく別の場所にあるものを同じ画面に捉える。 5 m先にある木、10m先にある家、20m先にあるビル、100m先にある丘、1000m上空の雲、等、存在する場所が異なる複数のものを一画面の中に平面的に捉える。 撮影者からそれぞれ別々の距離の場所に存在するものが、圧縮されて同じ平面内に押し込まれる。 これは写真に限ったことではなく、絵画も同じだと思う。写真に特有なことではなく、人間の視覚のしくみが立体物を網膜という平面に投影するというプロセスを持つので、写真にしろ絵画にしろ、同じことが起こるのだろう。 しかし、立体物をイメージセンサーや網膜という平面に投影して、それを『見ている』というしくみは同じでも、カメラと違って目は二つのレンズがあるので、私たちが実際にモノを見るときには左右のレンズで受け取る映像の差異によって距離感をつかむことができる。 だが、それを通常の(ステレオ眼鏡を使わない)写真なり絵画なりの平面に落とし込もうとするときには、もともと存在していた距離感を表現することは難しくなり、遠近法に基づいて、モノの実際の大きさと画面に写っているモノ大きさの差異によって距離を感じ取るしかない。 望遠レンズを使用したときにも『圧縮効果』というのがあって、それぞれ別距離にあるものの距離が圧縮され、近くにいる人とはるか遠くにある山の距離が近く見えるというもの。 わたしたちはモノの実際の大きさをイメージできるし、空間は3次元だということを知っているし、遠くのものは小さく見えるということも理解しているので、写真という平面に凝縮された様々な被写体を見ても、それらが異なった距離にあることを考慮に入れて見ることができる。 ある写真論の本で『写真とはコラージュなのだ』という記述があったが、初めどういう意味なのかわからなかった。しかし、全く別の場所(距離)にあるモノが一気に同じ画面に詰め込まれた状態を考えると、それはまさにコラージュなんだと思った。(この解釈が合っているかは不明) 本来同居することのない異なった距離に存在するものが同一の平面に押し込まれる。 例えばレンズを解放状態にして被写界深度を浅くした状態で写真を撮影するとピント面は薄く、ピントがあったものしかはっきりとは写らない。 しかし、絞って被写界深度を深くしてピント面を厚くしていくと、とたんに異...

写真展とレビューにおける対話

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  写真展とレビューにおける対話 作品作成のマテリアルとして写真を使っている以上は、常に『写真とは何か』という問いは自分の中に持ってなくてはならないと思う。 そこで『写真論』の本をいろいろ読んでみたりして『自分にとって写真というメディアはどういうものなのか』『そのメディアの特性のどの側面を使い何を表現するのか』という問いの答えを見つけようとする。 しかし、作家一人だけでできることには限界がある。自分の頭の中だけで今の自分を超えた思考を生み出すのはなかなか難しい。 そこで『レビューと写真展』を通じて他者と作品について会話をし、他者の目を通して自分の作品を再評価する』という作業が重要になって来るのだと思う。 実は作品を作っている本人が『わかってない』ことというのは多々ある。 その『わかってない部分』というのは先ほどのレビューにおけるレビュアーとのトークや写真展の会場の観覧者とのトークによって明らかになっていくこともある。 また、作品についての他者との会話の中で『作品を通じて自分が伝えたいこと』が鑑賞者に違った形で伝わっていることが明らかになることがある。 また写真展やレビューに向け、ステートメントを書き、『思考を文章化』していく過程で、今まで自分の中で明確ではなかった『作品の本質』に気づくこともある。 そう考えると、『作品』というのは『鑑賞者』と『対話』があって初めて成り立つものなのだと思う。レビューや写真展の場で他者との意見交換というのはもはや『作品の一部』なのかもしれない。そして、鑑賞者が『自分の作品を見て感じ取ったこと、脳内に想起されたこと』もまた『作品の一部』なのかもしれない。 『ある思考や仮説』が作家の中に存在し、それを『実験、実証』するための『作品』というマテリアルが作り出される。その作品を鑑賞者が見ることで、作品を介した『他者との対話』が生み出され、それが『作品の元となった思考、仮説の実証が作品により正しく行われたかの確認』の場となる。 次のグループ展ではこれを意識して、鑑賞者といかに対話するかを考えていこうと思う。

Equivalent (3)

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  写真における『等価性』についての考察の続き 様々な等価性が写真にはあると思う ■イメージとしての等価性 被写体からモノとしての具体性を取り除いた抽象的イメージの場合、 写真のどの部分を切り取っても等価である。 写真の向きを変えてもイメージは等価である。 雲の写真は場所や時間を特定できないのでどの写真も等価である。 誰が撮っても同じようなイメージが出来上がる。 ■『 等価性 』が作り出す写真の力 具体的な被写体が写っていると鑑賞者の意識はそちらに向く。 それは『写真』というものを見ているのではなく、『被写体』を見ているのである。 通常の用途の写真であれば、写真の役割はこれで十分果たせている。 しかし、具体性を取り除いた『等価な』イメージを見た時、 鑑賞者は写真に写ってる具体的な物体を鑑賞するのではなくなる。 確かに『雪』というイメージを鑑賞しているだが、『モノ』としてそれを語るうえで必要となる情報がそぎ落とされ、鑑賞者によって『どうとでも捉えられる』イメージは、写っているものだけに留まらない思考や感情を鑑賞者の脳内に誘起するのではないか。 具体性をそぎ落として『等価』なイメージを作り上げることにより、より幅広いイメージ、記憶、感情などが鑑賞者の脳内に誘起されるのではないだろうか。 『写真を撮る』という行為自体が実際の物体から『次元』『時間』『奥行き』『音』『雰囲気』等様々な具体的要素をそぎ落とす作業である。 何かをそぎ落としたからこそ、逆に拡大・拡張される何かが生まれるのではないだろうか。