Equivalent (3)

 


写真における『等価性』についての考察の続き


様々な等価性が写真にはあると思う ■イメージとしての等価性

被写体からモノとしての具体性を取り除いた抽象的イメージの場合、写真のどの部分を切り取っても等価である。 写真の向きを変えてもイメージは等価である。 雲の写真は場所や時間を特定できないのでどの写真も等価である。 誰が撮っても同じようなイメージが出来上がる。


■『等価性』が作り出す写真の力

具体的な被写体が写っていると鑑賞者の意識はそちらに向く。 それは『写真』というものを見ているのではなく、『被写体』を見ているのである。 通常の用途の写真であれば、写真の役割はこれで十分果たせている。


しかし、具体性を取り除いた『等価な』イメージを見た時、鑑賞者は写真に写ってる具体的な物体を鑑賞するのではなくなる。 確かに『雪』というイメージを鑑賞しているだが、『モノ』としてそれを語るうえで必要となる情報がそぎ落とされ、鑑賞者によって『どうとでも捉えられる』イメージは、写っているものだけに留まらない思考や感情を鑑賞者の脳内に誘起するのではないか。 具体性をそぎ落として『等価』なイメージを作り上げることにより、より幅広いイメージ、記憶、感情などが鑑賞者の脳内に誘起されるのではないだろうか。 『写真を撮る』という行為自体が実際の物体から『次元』『時間』『奥行き』『音』『雰囲気』等様々な具体的要素をそぎ落とす作業である。 何かをそぎ落としたからこそ、逆に拡大・拡張される何かが生まれるのではないだろうか。

コメント

このブログの人気の投稿

アートとテクノロジー

痕跡

写真を見るという行為に対する意識