写真と時間

 


写真と時間

撮られた写真と撮られなかった写真


この世には無数の出来事が起こっている。自分が今日行動した範囲内だけでも、無数の人が行き交い、無数の車が目の前を通り過ぎ、街頭のスピーカーから音楽や宣伝が流れ、風が吹いたら桜が散り、路上には鳩が歩いている、等数えきれない穂と様々な出来事が絶え間なく起こり続けていた。


それを地球全範囲に広げて考えると、莫大な数の出来事が今日の24時間で起こっていた。


その無数の出来事の中で、『写真に撮られる出来事』と『写真に撮られない出来事』がある。『桜がきれいに咲いている』風景は写真に撮られる可能性が高い。しかし、『道に落ちている枯葉』というのは写真に撮られる可能性はかなり低いだろう。


その『撮られた出来事』の写真の中でも『誰にも公開されない』メモリーの肥やしになる、もしくはそのままごみ箱行きになる写真と『誰かに公開される』写真に分かれていく。


『撮られた』上に、さらに『人に公開された』写真の中にもそのまま『記憶に留まる』写真になるものもあれば『たど消費され忘れ去られていく』写真もある。


インスタで一年前にバズった写真とか、確かに見たことはあるんだけど、もう思い出せない。広告の写真とか雑誌に載った写真とか莫大な数の人の目に映った写真も、その役目を終えた後は忘れ去られていく。





しかし、時間の経過とともに『撮られたけど忘れられた写真』の価値が上がり、突然脚光を浴びる可能性もある。


メモリーの肥やしになっている今は誰も目にしない写真も将来その記録媒体であるハードディスクなどが廃棄され、たまたまそれを手に入れた人が偶然その写真を目にするということはあり得る。(データの消去をせずに廃棄した場合)


誰がいつ撮ったかわからない『ファウンドフォト』という形式で日の目を見る可能性もまだある。(フィルムと異なり、デジタルデータには日付の情報、場合によってはGPSのデータなどが付いている可能性があるのでフィルムのファウンドフォトよりは正体がわかりやすいが)


それが『人に公開する必要がなかった』くらいどうってことない日常のありふれた光景でも、50年前の写真データであれば『歴史の証人』としての新たな役割が与えられ、私たちは興味深くその写真を見るだろう。


忘れ去られた広告写真やバズった写真も、記録として残っていたり、SNSの膨大の記録の中に消去されずに残っていれば、50年後に、その当時の感覚や流行などを伝える重要な資料となるだろう。




写真は絶え間なく変化し続ける目の前で起こっている出来事の一瞬を切り取り、時間の流れから遊離させる。時間の経過とともに目の前を通り過ぎていった出来事は二度と起こることはないが、時間という次元を取り去られた写真は英検に変わることなく残り続ける。(劣化や紛失などを考慮に入れなければ)


『時間の経過を取り去られた』写真だからこそ『時間の経過』により新たな価値を付加される、ということが起こりえる。


しかし、これは人間だからそう思うだけで他の動物たちにとってはどうでもいいことなのかもしれない。

人間は過去の過ぎ去った出来事を懐かしむ、という感覚があるので古い写真に価値を見出すことができるのかもしれないし、歴史として過去の出来事を記録していく上でも古い写真は重要だ。


動物たちはどうだろう。今日のごはんが重要で、2年前のごはんはたぶんどうでもいいし、2年前に遊んでいた今はなきオモチャの写真を見て『うわー懐かしー、これ調お気に入りだったー』と懐かしむこともないだろう。


時間の経過の中で『忘れ去られたどうってことのない写真』に価値を見出し、それを楽しむという行為は我々人間にしかできないのかもしれない。


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