第一回写真研究会

 

みどりの日記 第一回写真研究会
酒井さんの講義を聞いて頭に浮かんだこと第一弾
『何かあるはずだ症候群』
写真展をやるとなると『何かを明確に表現しないといけない!』とか『鑑賞者に何かメッセージを伝えなくてはならない!』というよう強迫観念が自分にはある。
当然、人様に見せるのであればきちっとしたコンセプトは提示するのが礼儀だけど、これが過剰になりすぎるともしかしたら写真の本質から外れまくってしまうのかも。
写真展を見に行ったら『これらの作品群から何かを見出さなくてはならない!』という強迫観念的なものがあるのかもしれない。
つまんない映画とかを見ても『きっと何か役立つものがあるはずだ』『作品として残す以上何かのメッセージがあるはずだ』と『読み取らねば症候群』のように『わかんない自分が許せん』的な強迫観念。
自分は現代アートのコンセプチュアルな作品の読解が大好きなので特にこういう傾向がある。
でも、写真鑑賞の本質としては違った方向に行っちゃってるのかもしれない。
『ピカソの話』
ピカソが知人に写真を見せた。『おや、奥さんですね』と言われたピカソは、『いえ、ただの写真です。』と言った、というエピソードを聞いたことがある。
これ、今の時代なら『はい、うちの奥さんです。』って答えるのが普通だと思う。
この時代はマンレイがピカソやらデュシャンの写真をバンバン撮ってた時期だけど、今ほどは写真にまみれていない時代。だからこそ、明確に『写真は写真、実物は実物』的な感覚があったのだろうか。それとも、ピカソの感覚だからこそこういった『写真の本質をズバリと突く』ような返答ができたのだろうか。
『デュシャンの泉』
この写真を見た時自分はだたの『便器』としてみることができなかった。
写真に写っているのはまさしく『便器』なのだが、その写真化された物体から連想されるのは『現代アートの幕開け』『既存の体制への問題提起』など、『便器』とは全く異なるイメージだった。
デュシャンの泉について何らかの知識を持っている人なら同じような感覚に陥るだろう。
しかし、この作品をまったく見たことのない人にとっては、やはりまごうことなき『便器』なのかもしれない。
物体のイメージが想起する精神状況というものは、それを見た人間それぞれの知識や文化など様々なバックグラウンドにより異なっているということである。
『うに』を見て『うまそう』という感覚を持つのか、『キモっ!』って思うかは鑑賞者それぞれの文化の食生活や個人の好みによって異なってくる。
物体の作り出すイメージ想起のコードというのは一律ではないし、さらに想起されたイメージが違うコードを生み出し、そこからまたイメージが想起されるということも起こりえる。
自分にとっては『レンガ』が作り出すイメージ想起のコードは『開拓』であったりする。でも、ヨーロッパの人にとっては全然そんなことない。

自分の脳内のイメージとコードの連鎖
『レンガ』と言ったら『開拓』
『開拓』と言ったら『アメリカ』
イメージ分岐
『開拓』といったら『林』
『林』といったら『林立』
『林立』といったら『ビル』
で、結果的に『開拓当初の林』と『現在のビルの林』という映像的対比が生まれた。
的な。
これで、『みどりの日記』に出した作品が生まれた。
イメージが作り出すコード、それによって誘発される精神活動
このコードの多様性や、誘発される精神活動の多様性
誘起される精神活動に対する文化的、知識的な影響。

今回の写真研究会で色々な疑問が浮かんできた。
しばらく『映像の修辞学』と『記号論』の本を読んで色々考えよう。

コメント

このブログの人気の投稿

写真のコラージュ性

テクノロジーの限界としてのフィルム、デジタルの存在

痕跡