言語化による認識
先週のみどりの日記写真研究会での酒井さんの講義の内容を、次回の写真研究会で参加者の皆さんにお渡しできるようまとめているうちに色々頭に浮かぶものがあった
講義の中で『写真には何か映る』という一言があった。これは対象物である被写体以外の『何か』が写りこむということなのだろうと自分は理解した。
これは2015年7月5日に撮った、特にこれといった『目立った対象』が『明確な被写体』として映っていない写真。
山を写したいんだか、建物を写したいんだか、道路を写したいんだかまったくよくわからない写真。でも撮ったということは、何かしらの印象が『この場』にあったのだと思う。
こんな何が写っているかも定かでない曖昧な写真でも、この写真のことは今でもはっきりと存在を思い出せるし、HDD内の写真の樹海から取り出すことができる。
ということは『被写体』以外の何かの『ものとして写っていない』『雰囲気』というか『空気感』がこの写真を忘れられないものにしているのだろうか。
それとも撮ろうと思ったときに感じた『何か』が形のないまま写真の中に吸い込まれて、自分の中で大きな印象として残ったのか。
それが『何か写る』ということなのような気がする。
シニフィアン(物体、文字、色等)がそれを見たものの精神に働きかけ何らかのイメージ(シニフィエ)を想起させるというのを記号論の本で読んだけど、この写真の各シニフィアンからは特になにかしらのシニフィエ的なものが自分の中に生まれない。
もしかしたら、この写真を見た時『シニフィエ』的なものが頭に想起されているけれど、それが言語化というか明確化できないので『まったくイメージが浮かばない』ということになるのかもしれない。
あまりに平坦に写っているので、被写体から特定の強いメッセージが発生して心に突き刺さる、ということがないのかもしれない。
そもそも世の中ってこういう『特に強いメッセージの発しない平坦なもの』の連続なのかもしれない。
この『どうってことない写真』だけど『忘れられない写真』になってしまっている仕組みを解読したい。
この辺が『写真をある場所に行って撮りながら』考えていく次のテーマなのかもしれない。
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