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Chat GPTに聞いてみた

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『言語と存在』 昨日アップした写真の話の中に『写真を見た時、自分の中にシニフィエが生まれているにも関わらず、言語化できてないから気づいていないかも』ということを述べた。 この世の物体は『光』が当たっているからこそ、その存在を明確に視覚で感じ取れ、『存在』を確認できる。 昨日の二人展の打ち上げで酔っぱらって写真について語っている時、『言語化されていないものは存在していないのではないか』という意見があった。 視覚ではとらえているかもしれないが『それを描写する言語』がなかったら、『見えているけど存在しない』という状況に陥ってしまうのかもしれない。 まさに、『写真からある種のシニフィエを感じ取っている』にもかかわらず、それを『言語化』ができないと、それは『感じているけど存在しない何か』になってしまう。 私たちは『言語』で考えているので、『言語化』できないものの存在にたいして『写っているけど写っていない』ような不思議な感覚になるんかもしれない。 まさに『言語』とは物体に『存在』を与える『光』みたいなものなのかもしれない。 『うまみ』っていう味は言語化されているから、それを舌で認識したとき、『う~ん、絶妙なうまみだ』って言えるけど、その言語がなければ『なんかいい感じだけど何だこりゃ』ってなるし、他の人とその『うまみ』について共有したりできない。 写真研究会でデュシャンの泉の話も出たが、あの写真を見た時『美術の知識』がある人間は『デュシャンじゃん』ってなる。 つまり『あのかたちの便器でサインがしてある=デュシャン』という『言語化、概念化』ができているからこそ、そういった思考になる。 これが美術のことがわからない人にとっては、その『あの形の便器でサインがしてある=時代を変えた芸術作品』という言語化というかつながりを持っていないので『便器だろ』ってなる。 そこでみんな大好きChat GPTにデュシャンの便器見せて、これなーんだ?って聞いてみた。 この人、迷いなく『デュシャンだよ』って言ってきた。 極めて『理性的』というか『教養がある』というか、莫大なイメージを『言語化』して、ただの便器とあの便器をしっかりと認識分けできている。 ネット上にはこの作品についての『言語化』された情報がやまのようにあるし、『画像』もわんさかあるから、これはもう既定の事実として存在しているんだよな。 言語って...

第一回写真研究会

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  みどりの日記 第一回写真研究会 酒井さんの講義を聞いて頭に浮かんだこと第一弾 『何かあるはずだ症候群』 写真展をやるとなると『何かを明確に表現しないといけない!』とか『鑑賞者に何かメッセージを伝えなくてはならない!』というよう強迫観念が自分にはある。 当然、人様に見せるのであればきちっとしたコンセプトは提示するのが礼儀だけど、これが過剰になりすぎるともしかしたら写真の本質から外れまくってしまうのかも。 写真展を見に行ったら『これらの作品群から何かを見出さなくてはならない!』という強迫観念的なものがあるのかもしれない。 つまんない映画とかを見ても『きっと何か役立つものがあるはずだ』『作品として残す以上何かのメッセージがあるはずだ』と『読み取らねば症候群』のように『わかんない自分が許せん』的な強迫観念。 自分は現代アートのコンセプチュアルな作品の読解が大好きなので特にこういう傾向がある。 でも、写真鑑賞の本質としては違った方向に行っちゃってるのかもしれない。 『ピカソの話』 ピカソが知人に写真を見せた。『おや、奥さんですね』と言われたピカソは、『いえ、ただの写真です。』と言った、というエピソードを聞いたことがある。 これ、今の時代なら『はい、うちの奥さんです。』って答えるのが普通だと思う。 この時代はマンレイがピカソやらデュシャンの写真をバンバン撮ってた時期だけど、今ほどは写真にまみれていない時代。だからこそ、明確に『写真は写真、実物は実物』的な感覚があったのだろうか。それとも、ピカソの感覚だからこそこういった『写真の本質をズバリと突く』ような返答ができたのだろうか。 『デュシャンの泉』 この写真を見た時自分はだたの『便器』としてみることができなかった。 写真に写っているのはまさしく『便器』なのだが、その写真化された物体から連想されるのは『現代アートの幕開け』『既存の体制への問題提起』など、『便器』とは全く異なるイメージだった。 デュシャンの泉について何らかの知識を持っている人なら同じような感覚に陥るだろう。 しかし、この作品をまったく見たことのない人にとっては、やはりまごうことなき『便器』なのかもしれない。 物体のイメージが想起する精神状況というものは、それを見た人間それぞれの知識や文化など様々なバックグラウンドにより異なっているということである。 『うに...

言語化による認識

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  先週のみどりの日記写真研究会での酒井さんの講義の内容を、次回の写真研究会で参加者の皆さんにお渡しできるようまとめているうちに色々頭に浮かぶものがあった 講義の中で『写真には何か映る』という一言があった。これは対象物である被写体以外の『何か』が写りこむということなのだろうと自分は理解した。 これは2015年7月5日に撮った、特にこれといった『目立った対象』が『明確な被写体』として映っていない写真。 山を写したいんだか、建物を写したいんだか、道路を写したいんだかまったくよくわからない写真。でも撮ったということは、何かしらの印象が『この場』にあったのだと思う。 こんな何が写っているかも定かでない曖昧な写真でも、この写真のことは今でもはっきりと存在を思い出せるし、HDD内の写真の樹海から取り出すことができる。 ということは『被写体』以外の何かの『ものとして写っていない』『雰囲気』というか『空気感』がこの写真を忘れられないものにしているのだろうか。 それとも撮ろうと思ったときに感じた『何か』が形のないまま写真の中に吸い込まれて、自分の中で大きな印象として残ったのか。 それが『何か写る』ということなのような気がする。 シニフィアン(物体、文字、色等)がそれを見たものの精神に働きかけ何らかのイメージ(シニフィエ)を想起させるというのを記号論の本で読んだけど、この写真の各シニフィアンからは特になにかしらのシニフィエ的なものが自分の中に生まれない。 もしかしたら、この写真を見た時『シニフィエ』的なものが頭に想起されているけれど、それが言語化というか明確化できないので『まったくイメージが浮かばない』ということになるのかもしれない。 あまりに平坦に写っているので、被写体から特定の強いメッセージが発生して心に突き刺さる、ということがないのかもしれない。 そもそも世の中ってこういう『特に強いメッセージの発しない平坦なもの』の連続なのかもしれない。 この『どうってことない写真』だけど『忘れられない写真』になってしまっている仕組みを解読したい。 この辺が『写真をある場所に行って撮りながら』考えていく次のテーマなのかもしれない。