写真を見るという行為に対する意識

 


写真を見るとは

現代社会は写真に取り囲まれている。書籍やポスターなどの紙の媒体、ネット上の電子媒体などありとあらゆる場所に写真がある。写真を目にしない日はない。

しかし、私たちを取り囲んでいる無数の写真を目にするときに『写真を見ているという意識』は果たしてあるのだろうか。写真があまりにも数多く身の回りに存在するので、それを見るという行為は、言葉を発したり、文字を読むのと同じくらい普通のことで、特段意識はしないだろう。

写真を見ていると意識していない瞬間の例

→レストランのメニューに載っているハンバーグの写真を見ている時

→雑誌の写真を見ている時

→様々なポスターなどの広告写真を見ている時

こういったときには、写真集や写真展に行ったときのような『写真を見てる』という明確な意識はほぼないだろう。


これと同じように、文字を読むとき我々は『今、文字を読んでいるのだ』とわざわざ意識しない。写真は文字と同じように、意思伝達の媒体として生活に深く溶け込み、あえてそれを意識する必要がないほど普通のものになっている。


それでは、逆に『写真であること』を明確に鑑賞者に意識させるにはどうすればいいのだろうか。目の前にあるものは純然たる『写真』である、自分は『写真を見ている』という感覚を引き出すものとは一体なんだろうか。


スティーグリッツのイクイバレントは、場所も時間も特定できないような形がおぼろげな雲の写真を撮影したシリーズである。


写真の中に特定のアイデンティティを持つ被写体が存在しないこと、何かの劇的な一瞬を捉えた写真的クライマックスが存在しないこと、被写体の形が定かではなくそれ以外のどんなものにも見えること、これらの被写体の不確実さにより鑑賞者は写真の中に見るべきものを発見できない。明確な被写体を見ることによる感情の動きはほぼ発生しないだろう。自分が今行っている行為を描写するにあたり『写真の中の特定の被写体を見ている』というわけでもないゆえに、『自分は写真を見ている』以外に適当な言葉が見つからなくなるのではないだろうか。


無数の写真が絶え間なく無意識に目に入ってくるこの時代に生きている私たちは写真を見るという行為に対して特別な意識を持たなくなっている。このような時代に芸術写真を考える時、あえて鑑賞者に『今自分は写真を見ているのだ』と意識させるような作品を考えていくことも面白いアプローチなのかもしれない。




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